ショスタコ−ヴィチ:5つの「バレエ組曲」より
D.Shostakovich:From 5 Ballet Suites
ドミートリ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチは1906年9月25日、ロシアのペテルブルグに生まれました(なぜミドルネームを記したかというと、実は彼の父親の名前もドミートリさんなのです。ちなみに孫にもドミートリさんがいます)。そして4歳に母親の手ほどきでピアノを習って以来、13歳でペトログラード音楽院へ入学、16歳で交響曲第1番を発表し、新進気鋭の天才作曲家として世間の注目を浴びます。その後も15曲の交響曲、室内楽、器楽曲、オペラ、さらにおびただしい数のバレエや映画音楽を立て続けに作曲する等、その才能と活躍ぶりはまさに20世紀のモーツァルトと言っても過言ではないでしょう。ところがモーツァルトとは大きな違いがひとつあります。それは、当時のソヴィエト当局からの「足かせ」があり、少しでもご機嫌を損ねたら容赦なく抹殺される、という恐怖に怯えながら作曲していたということなのです。
今回抜粋して演奏する一連のバレエ音楽を作曲した当時のショスタコーヴィチはまだ20代、まだその「足かせ」を知らない才気煥発な青年で、自己の感性に任せて随所に斬新な仕掛けを施した作品を次々と生み出していました。しかし、当時の世の中は…1917年のロシア革命をきっかけに1922年にソヴィエト連邦が発足、1924年にスターリンによる一党独裁政権が始まり、マルクス・レーニンの思想に則った労働者中心の共産主義国家を実現するべく、あらゆる産業や研究開発、そして文化芸術へまで細かい規制が入ってきた矢先でした。ここでスターリンは芸術分野においても「社会主義的リアリズム」--ひらたく言うと、@ロシア民族音楽の流れをくみ、A社会主義思想に則り、B現実的かつ平易で、C士気高揚に結びつく作品を創作するように--を提唱し、夢物語や自由な作品はご法度となりました。ショスタコーヴィチも当初はその「お題」に従い、交響曲第2番では合唱団に「レーニン!」と叫ばせたり、『白鳥の湖』等ファンタジー系の多いバレエ音楽も工場や集団農場を舞台にしたストーリーであったり等、その社会主義リアリズムに沿った作品を発表して成功を収めていました。
ところがついに音楽についても取り締まりの対象となり、その矛先は新進気鋭のショスタコーヴィチに向けられました。1936年、ソヴィエト共産党機関紙「プラウダ」に、国としての公式見解よろしく、彼が過去発表した作品が今さら?相次いで槍玉にあがり、名指しで批判されたのです。内容はオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1934年初演)は理解不能で中身が無い、分かりやすさとは程遠い。コルホーズ(集団農場)を舞台にしたバレエ『明るい小川』(1935年初演)では逆にその平易さゆえに、ロシアバレエの伝統を踏みにじった軽々しい作品で、もはや偽善であるなどなど。作品の意図を汲まずに当局側の受け止め方で論じられては、作曲した側にとってはたまったものではありません。よかれと思って発表した作品なのに、自身の思いとは裏腹に反体制の作曲家のレッテルを貼られてしまったショスタコーヴィチ。このままでは仕事が減るどころか、捕らえられて銃殺されるかも知れません。さて彼の運命や如何に?
さておき、本日演奏する「バレエ組曲」ですが、一連のバレエ音楽から1950〜53年にレフ・アドミャーンにより編纂された5つのバレエ組曲から、このプラウダで批判の対象となった『明るい小川』あるいは『ボルト』を中心に、以下計7曲を独自にセレクトしました。
第1曲 ワルツ (第2組曲第1曲、原曲『明るい小川』)
第2曲 ダンス(ピツィカート) (第1組曲第2曲、原曲『明るい小川』)
第3曲 ダンス (第3組曲第3曲、原曲『明るい小川』)
第4曲 エレジー (第3組曲第4曲、原曲『人間喜劇』)
第5曲 ギャロップ (第2組曲第6曲、原曲『明るい小川』)
第6曲 荷馬車引きの踊り (第5組曲第3曲、原曲『ボルト』)
第7曲 スケルツォ. (第4組曲第3曲、原曲『ボルト』)
作曲された当時の歴史的背景は置いといて、音楽そのものは聴いておわかりのとおり、どれも「え、本当にショスタコーヴィチ?」と思うような平易で親しみやすい曲ばかりです。どうか何も深く考えず、聞こえてくる音楽をお楽しみいただければ幸いです。
(2013.3.3)