ショスタコ−ヴィチ:交響曲第8番ハ短調 作品65

D.Shostakovich:Symphony No.8 in c-minor, Op.65


「ショスタコーヴィチの偶数の交響曲には、彼の本音が込められているのではないか…」

 指揮者の大野和士さんはショスタコーヴィチの交響曲を振ってN響デビューを果たしたとき、このように述べています。確かに初期作品など一部の例外を除けば、奇数番号の交響曲はいわゆる「二重言語」の手法を駆使し、ソヴィエト当局の意向に沿うべく体裁を整えつつ本音をひた隠しにしているようにも見えるし、偶数番号のそれは、作曲者の心情がよりストレートに音楽にぶつけられており、それゆえに聴き手の心を大きく揺さぶるものとなっています。
 この「奇数vs偶数」のコントラストが最もはっきり表れているのが、第二次世界大戦を機に相次いで作曲されたいわゆる「戦争三部作」(第7番『レニングラード』、第8番、第9番)です。レニングラード包囲戦の渦中で筆を進めた第7番、第二次世界大戦の勝利を記念した第9番に対し、スターリングラード攻防戦にインスパイアされて作曲された第8番は、他の2曲とは大きく違い、戦争の残虐さと虚しさの代弁、そして犠牲者への哀悼の意が強く込められており、ショスタコーヴィチの全交響曲の中でもとりわけドラマティックで、激しい感情表現が際立っています。初演は194311月モスクワにて、前作の交響曲第7番『レニングラード』に引き続きエフゲニー・ムラヴィンスキーの指揮、ソヴィエト国立交響楽団で行われましたが、華々しい第7番の成功とは打って変わって、コンセプトの重さと曲想の暗さから、巷では賛辞よりも苦言の方が多かったようです。そして1948年にジダーノフ批判の標的となって演奏禁止のレッテルを貼られてしまい、以降1960年に禁止が解かれるまで、交響曲第8番がソヴィエト国内に響くことはありませんでした。しかしショスタコーヴィチは周りからの厳しい批判とは裏腹に、交響曲第8番が自己の最高傑作である旨を確信するとともに、この曲を初演者であるムラヴィンスキーに献呈しました。


1楽章 アダージョ〜アレグロ・ノン・トロッポ〜アレグロ〜アダージョ

演奏時間60分を超える交響曲の、およそ半分近くを占める楽章です。冒頭いきなり、低弦楽器(チェロ・コントラバス)の衝撃的なff(この「C(ド)-B(シ♭)-C(ド)」という音型は、この交響曲全体を統一するモティーフとして、以降の楽章でも随所に登場します)。高弦楽器(第2ヴァイオリン・ヴィオラ)が応え、やがて静まって第1ヴァイオリンが登場し、静かに旋律を奏で始める…同じショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴いたことがある方であれば、ほぼ同じ流れであることにお気づきかと思います。ブルックナー開始ならぬ「ショスタコーヴィチ開始」とでも言えましょうか。
 しかし、交響曲第5番との違いは、このあとテンポがアレグロ・ノン・トロッポ(快速に、急がないように)に上がったところで現れます。「二重言語」の仮面を被って当局の顔色を窺うようにスタイリッシュに進行する第5番に対し、第8番は自身の感情をストレートにぶつけるような激しい音楽が展開します。テンポはさらに上がってアレグロ、軍隊か警察を彷彿とさせる金管楽器のグロテスクな行進曲となり、クライマックスでは威圧的な大音響が響き渡ります。それが突如途切れて静寂が訪れると、コールアングレ(イングリッシュホルン)によるレシタティーヴォ―戦争で全てを失った者の、やり場のない憤りと絶望感に満ちたモノローグです。そしてやがて、見えてきた一筋の光に向かってよろよろと歩き始めると、弱音器を付けたトランペットが遠くから響く中で、第1楽章が終わります。


2楽章 アレグレット

 第2楽章といえば、普通は落ち着いた緩徐楽章か、快速なスケルツォの二者択一が交響曲の定石です。そしてショスタコーヴィチは敢えて、そのどちらともつかない「アレグレット(やや快速に)」という速度によるエネルギッシュな楽章を配置しました。重苦しい雰囲気の中で気丈に振る舞うような行進曲風の音楽は、チャイコフスキーの『悲愴』第3楽章にも似ています。前の楽章より半音高い変ニ長調であることも手伝い、元気というよりもヒステリックとかナチュラルハイといった形容の方がふさわしいような、不自然で強烈な音楽が展開します。最後は迷走と暴走ののち、突然電池が切れたかのごとくテンポもパワーも失速し、最後の力を振り絞った後、ばったりと倒れるように終わります。

3楽章 アレグロ・ノン・トロッポ

 後半の3つの楽章は切れ目なく演奏されます。
 ショスタコーヴィチにしか書き得ないような、武骨で激しく、独創的な2/2拍子のトッカータ風のスケルツォ楽章です。速度表記はアレグロ・ノン・トロッポ(快速に、急がないように)でありながら、妙に急き立てられるような無窮動がヴィオラに始まり、あちこちのパートへ伝染しながら楽章を通して鳴り続けます。木管楽器による突き刺さるような旋律、そして時折聞こえる低弦もしくはトロンボーン・テューバ・ティンパニによる、杭か楔を打ち込むような鈍い地響き。トランペット群によるぎらぎらしたギャロップを経て、冒頭の無窮動が再度現れますが、音楽はさらに凶暴さを増し、やがてティンパニの乱打とオーケストラ全体の強奏が交錯し、全曲を通して最大のクライマックスを構築します。そしてブレーキがかかることなく、次の楽章へとなだれ込みます。


4楽章 ラルゴ

 交響曲の中に組み入れられたものの中でも、ブラームスの交響曲4番終楽章と並び称されるパッサカリア(繰り返される低音主題に乗った変奏曲)です。
 強烈なタムタム(銅鑼)の一撃とともに、まず低音のパッサカリア主題が強奏され、徐々に音量を落としながら、やがて生と死の間をさまようような混沌とした11の変奏曲が始まります。冒頭4つの変奏は弦楽器のみで演奏され、続く第5変奏は瞑想的なホルンのソロ。第6変奏はピッコロのソロ、第7変奏は恐怖に怯えるフルートの四重奏(フラッター(音を震わせる)奏法)、第8変奏以降はクラリネットの息の長いソロ(実は1番奏者と2番奏者が交代で演奏しています)が音の綾となり、やがて現世に別れを告げた魂が昇天し、そのまま最後の楽章へと導きます。


5楽章 アレグレット

 魂の昇った先には、楽園がありました。「C(ド)−D(レ)−C(ド)」という音型(冒頭の「C(ド)−B(シ♭)−C(ド)」の逆転)から派生したハ長調の主題が、ファゴットにより提示されます。もはや現世のしがらみから解放され、悟りと諦めの境地に入ったような、穏やかな終曲です。フルートによる小鳥のさえずりやチェロの牧歌を経て、オーボエが少し現実に立ち返ろうとしますが、すぐに元通りのハ長調の旋律に戻ります。ファゴットとバスクラリネットによる諦めとも開き直りとも受け取れるような旋律。陽気なフィードル(ヴァイオリン)の音も聞こえてきます。これらの主題がフーガ風に絡みながら展開し、幸せを謳歌した頂点で、再び第1楽章のクライマックスで出てきた不協和音が大音量で響き、悲劇がフラッシュバックします。が、これももう過ぎ去ったこと。大丈夫だよと諭すように、バスクラリネットやヴァイオリン、チェロ、ファゴットなどのソロが、楽章の前半で登場した様々なキャラクターの旋律たちを、走馬灯のように再現します。やがて平和なハ長調の和音が穏やかに鳴り、弦楽器のピツィカートとフルートの余韻の中で、永遠の安息を祈りつつ、静かに消えるように終わります。

 蛇足ですが、先日聴きに行ったとあるオーケストラの演奏会は、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』とショスタコーヴィチの交響曲第8番というプログラムでした。この2曲を聴き終わったとき、ハ短調で始まりハ長調で終わることや、どちらも自身の内なる葛藤を秘めているという共通点がありながら、両者がまったく正反対の印象を醸しだしていることに気付きました。運命との激しい葛藤の末、高らかに勝利を謳い決然と終わるベートーヴェンに対し、ショスタコーヴィチは逆に打ちひしがれ、諦めとも悟りともつかない無力感に支配され、平和を祈りつつ静かに終わります。同じような葛藤の後に、まったく違う結論。もしかしたらこの交響曲第8番は戦争と社会主義によって狂ってしまった、ショスタコーヴィチ自身の『運命』交響曲であるのかも知れませんね。

(2015.2.8)

 


もとい