ショスタコ−ヴィチ:交響曲第13番変ロ短調 作品113『バビ・ヤール』

D.Shostakovich:Symphony No.13 in b-flat minor,Op.113"Babi Yar"


「いやあ、素晴らしい詩人がいるんだ。今この人の詩で新しい交響曲を書いているところなんだ」

ショスタコーヴィチと親交の深かった作曲家・指揮者の芥川也寸志さんがモスクワで彼に会った際、まず開口一番にこう言われたそうです。詩人の名は当時新進気鋭のエフゲニー・エフトゥシェンコ(1933- )。ショスタコーヴィチは、1961年に発表されたエフトゥシェンコの『バビ・ヤール』という詩に深く感銘した旨を、のちに自著やメディア取材でも述懐しています。
 『バビ・ヤール』とは現ウクライナの首都キエフ郊外にある峡谷の名前で、かつてここはポーランドのアウシュヴィッツ同様、ナチスのウクライナ占領時代に、7万人とも12万人とも言われるユダヤ人が集められ、虐殺された場所です。そしてナチスによりこの事実は口止めされ、人々はその後の平穏な生活と引き換えに、誰もその恐ろしい出来事を口にすることはありませんでした。さらにソヴィエト政府も自国のユダヤ人迫害の過去を封印すべく、バビ・ヤール周辺地域のダム建設や公園・住宅、あるいはスポーツ施設などの再開発を進めていました。 1961年にこの地を訪れたエフトゥシェンコは、この大事件が闇に葬られてしまうことに危機感を覚え、『バビ・ヤール』という詩として発表し世に問います。結果は案の定賛否両論で、大きな物議を醸しましたが、この詩に強く共感したショスタコーヴィチはエフトゥシェンコに対し、『バビ・ヤール』をテキストとした作品を作りたいと提案します。当初は単独の合唱曲を想定してしたようですが、最終的に『バビ・ヤール』を第1楽章に据え、同じく当局を風刺したエフトゥシェンコの旧作(『ユーモア』『商店にて』『出世』)に、新たに書き下ろされた『恐怖』を加えた、男声(バス)合唱とバス独唱を伴う全5楽章の交響曲としてまとめられました。
作品の内容が内容なだけに、初演に際しては当局の妨害が演奏会当日まで続き、指揮者やソリストについても二転三転の末、ようやく翌196212月にキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィル、ヴィタリー・グロマツキーのバス独唱により初演されました。ショスタコーヴィチが交響曲に声楽を用いるのは第23番にも前例がありますが、この『バビ・ヤール』は、単なる歌付きの交響曲というよりもいわばエフトゥシェンコとのコラボ作品であり、詩と音楽の相乗効果によって、より強いメッセージを発信しているところが大きな特徴となっています。

1楽章 『バビ・ヤール』

 厳かに鳴らされる鐘のB(変ロ)音と管楽器群の弱音に導かれ、バス合唱が「バビ・ヤールに記念碑はない・・・」、続いてバス独唱が「私は思う。今、自分がユダヤ人のようだと・・・」と、この地で命を落としたユダヤ人へ思いを馳せます。テンポが上がり、ファシストの足音が遠くから聞こえ始めます。詩はバビ・ヤールの追悼碑建立を許さず、ユダヤ人虐殺の過去を隠ぺいしようとしている政府を暴露するとともに、帝政ロシア時代からの反ユダヤ運動(ロシア民族同盟)や、同じくユダヤ人として迫害を受けて死んでいったアンネ・フランクのエピソードを引用しつつ、ソヴィエト国内外の反ユダヤ思想はまだ完全に払拭されていないことを問題提起しています。徐々にナチス軍の足音が近づき、ついに隠れ家の扉が破られ、オーケストラ全体で冒頭の主題が強烈に再現し、荒れ狂います。静寂の後、再び合唱と独唱が犠牲者の無念な思いを代弁すると、最後は再び冒頭の主題がfffで蘇り、頂点で全員の音が断ち切られて終わります。

2楽章 『ユーモア』

 第2楽章以降はユダヤ人迫害問題とは関係ありませんが、『バビ・ヤール』同様、エフトゥシェンコによる当時のソヴィエト政府を痛烈に批判する内容の詩がテキストとして用いられています。冒頭の鮮烈なハ長調の和音に続き、この世の中のどんな権力者もユーモアには歯が立たない、ユーモアを処刑しようとしたら、逆に小馬鹿にされた・・・という内容の歌が続きます。処刑のシーンでは旧作の歌曲『処刑前のマクファーソン』の旋律が引用されていますが、実はこれはバルトークの『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』第3楽章の主題でもあります。もしかしたら、かつてショスタコーヴィチの交響曲第7番『レニングラード』の主題をバルトークが「管弦楽のための協奏曲」第4楽章で面白おかしく弄ったことに対する、ささやかな仕返しが込められているのかも知れません。途中から民衆のシュプレヒコールも加わり、最後はざまあみろ!と言わんばかりに颯爽と去っていきます。

3楽章 『商店にて』

チェロとコントラバスによる子守歌風のゆったりした旋律で始まる、静かな楽章です。主人公は、とある商店を訪ねます。商店といっても、コンビニやスーパーのような豊富な在庫を期待してはいけません。主人公が目の当たりにしたのは、慢性的な食料不足で品薄な店にわずかに入荷した食糧を求め、レジの順番を待って行列する女性たち。時折響くカスタネットは、店内で瓶や缶が当たる音を模倣しています。当時のソヴィエトは経済破綻が進み、主婦も働きに出て、食費の足しにしないと生活できなかったのです。そしてその行列を見つめ、釣銭や計量で女性たちをだますのは恥なことだ!と、頑張る女性たちに最大限の賛美と尊敬の念を表しつつ、主人公はペリメニ(水餃子)の袋を自らのポケットへ突っ込みます(ちなみに代金を払ったかどうかは文脈からは読み取れません。このへんはご想像にお任せいたします)。何事もなかったかのように冒頭の子守歌風の主題が回帰し、切れ目なく次の楽章へ続きます。

4楽章『恐怖』

エフトゥシェンコが、この交響曲のために書き下ろしたオリジナルの詩です。
ティンパニとタムタムの弱奏を伴うバステューバの不穏なソロに続き、バス合唱が「恐怖はロシアで死のうとしている…」と歌いだします。この恐怖とはスターリンによる「恐怖政治」、例えばいつ何時盗聴され、当局に密告されるか、そしていつ当局から粛清の憂き目に遭うのかという恐怖を指しています。フルートに始まる不安な三連符の音型がやがて楽器を変えてトランペットに至り、音量が頂点に達したところで警鐘が鳴らされます。
弦楽器のコル・レーニョ(弓の背で弦を叩く奏法)を伴う行進曲調の労働歌に転じ、バス合唱が新たな別の恐怖が出現したことを歌います。スターリン政権以降の「雪解け」で恐怖政治がなくなった代わりに、今度は当局に媚びを売るためのごまかしやずるさ、つまり偽装で真実を封じ込めてしまう恐怖、自分をよく見せるために他人を批判し陥れる恐怖。ここで二度目のクライマックスが訪れ、再び警鐘が鳴り渡ります。そして皮肉にも詩を書いている自分自身も…真実を書く勇気を失うことへの「恐怖」に駆られている、だから今、必死に書いているのだ、と。怯え続けてうごめく低弦へ、ホルンが落ち着きを取り戻すよう促しつつ、終楽章へ繋ぎます。

5楽章『出世』

 前の楽章までの混沌とした雰囲気が一変し、天の声のようなフルートの二重奏が主題を奏で、理想郷の世界が広がります。地動説(いわゆる「地球は動いている」)を唱えて大司教から粛清を受け、周りから愚か者呼ばわりされたガリレオ・ガリレイを題材に、「実はガリレオ以外の学者も、地球が動いていると思っていた。だけど養う家族がいるから言えなかったんだ」と(まあ、サラリーマンだとよくある話ですよね)。そして、こう続きます--「信念を曲げて多数派に迎合した人は出世したが、そこまでだった。ガリレオは真実を唱え、信念を貫いて出世しなかったが、後の世に認められたのは彼だけだ」「つまり出世をしないことが、自分にとっての真の出世である・・・」。最後は冒頭のフルート二重奏が独奏ヴァイオリンと独奏ヴィオラのデュエットで再現され、徐々にフェードアウトしながら、是非の判断を後世に委ねます。時代が変わり、静寂が訪れたところでチェレスタが真実を語り始め、冒頭と同じB(変ロ)音の鐘とともに、一筋の光が差す未来へ向けて全曲が締めくくられます。

(2014.2.11)


もとい