ボロディン:歌劇「イーゴリー公」〜だったん人の踊り

A.P.Borodin:"PRINCE IGOR"〜Danse Polovtsienne 


 本日の演奏会は「だったん人の踊り」で幕を開けましょう。アマチュアオーケストラの拙い演奏ですが、どうぞごゆっくり…ちなみに、このとびきり美しい旋律の作曲者ボロディンも、実は私達同様アマチュアなのです。
 アレキサンドル・ボロディン(1834〜1887)は、13歳でフルート協奏曲を作曲したり、家族や学校の友人等あちこちのアマチュア室内楽団でチェロを弾いたり、おまけにピアノの腕は玄人はだしだったり等、音楽の才能に秀でていた少年でした。しかし彼はあくまでも音楽は趣味と割り切り、大学では化学を修め、卒業後は陸軍病院の薬剤師などを経てペテルブルグにある大学病院に勤務し、また学者としても母校を始め医科大学の教授として教鞭もとっていました。そして、並行して同じくアマチュア作曲家(本業は陸軍将校)であるムソルグスキーなどと親交を深め、徐々に作曲家としても頭角を現していったのです。
 したがって、今日残っている彼の作品はすべて、そういった激務の合間を縫うようにして捻出した、限られた時間で作曲されたものなのです。でも作曲技術や作品の出来はプロ以上の水準で(同時代の「プロ作曲家」であったバラキレフより数段ポピュラーですよね)、残された作品群からはドイツ・ロマン派の流れを汲んだかっちりした構成にスラブ民族特有の熱さや旋律の美しさがブレンドされているボロディンの個性がはっきりと聴き取れます。
 当時のロシア国民楽派の作曲家は、音楽の題材としてロシアの歴史や人物を使うことが多かったようです(いわば「時代劇」)。ボロディンもその一人で、ロシア建国時代の英雄・イーゴリ公を題材にしたオペラに着想し、作曲を始めたのは1869年のことです。
時は12世紀、イーゴリ公はロシア南部に侵攻してきただったん人(=ポロヴェッツ人。東部モンゴルの遊牧民族)と闘って敗北し、だったん側の捕虜になってしまいます。だったん軍の将軍コンチャークは、捕らわれの身となってもなおプライドを失わないイーゴリ公に心を打たれ、捕虜転じて「客人」として宴の席を設け、手厚くもてなします。その時にだったん人の乙女による哀愁を帯びた踊り、だったん軍の兵士、さらにはロシア軍捕虜も加わった合唱(本日は合唱は省略しています)による情熱的に踊られる舞曲がこの「だったん人の踊り」なのです。
 この「イーゴリ公」はプロローグと4幕もののオペラで、時代劇と言いつつも、さしずめ大河ドラマに匹敵する?大作です。そして、ただでさえ「本業」で多忙を極めていたボロディンですから、いざ手掛けてはみたものの、完成するまでの道のりはとてつもなく遠かったようです。そういうわけでこのオペラは未完成のままボロディンは1887年にこの世を去ってしまい、リムスキー=コルサコフやグラズノフによる大掛かりな補筆の上オペラ「イーゴリ公」が初演されたのは、作曲者の死後3年経った1890年だったのです。
 
 

(2000.11.12)


もとい