ブラームス:交響曲第4番ホ短調Op.98

J.Brahms:Symphony No.4 in e-minor Op.98 


 「堅実」「孤独」。この2つが、この曲を理解するためのキーワードです。
このブラームス最後の交響曲が作曲された1885年の前後は、私たちが現在よく耳にする「名曲」が次々と誕生していました。例えば当時、主要な作曲家がどんな曲を書いていたのか、ざっと並べてみましょう。

1882年 ワーグナー:楽劇「パルシファル」(最後のオペラ)
1883年 ブラームス:交響曲第3番
1884年 ブルックナー:交響曲第7番
1885年 ブラームス:交響曲第4番
1886年 サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」
1887年 ブルックナー:交響曲第8番
1888年 チャイコフスキー:交響曲第5番
1888年 マーラー:交響曲第1番「巨人」
1889年 R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」 ・・・  

…さて、「あれっ?」とは思いませんでしたか?この曲が成立したのは、実はワーグナーが全てのオペラ作品を書き終えた後なのです。しかしながら「トリスタン」や「ニーベルングの指輪」などと比べると、この交響曲はあまり新しい感じがしませんよね。
 ワーグナーとブラームス――2人とも19世紀のドイツ・ロマン派を代表する作曲家ですが、実は両者の作風はもちろん、全てが対照的なのです。片や豪華絢爛たる楽器編成や上演にまる1週間かける壮大な楽劇、さらには派手な私生活。片や音楽は内容で勝負、形式を重んじる堅実な作風、地味で頑なな性格。当然、この両者のどちらを好むかで、巷に論争が起こりました。ちなみにこの論争は当事者同士というよりも、本人不在のところで第三者がこの2人を引き合いに出してお互いを激しく罵り合うという、何とも発展性の無いものであったようです。
 やがて、知らぬ間に論争の矢面に立っていたブラームスの周りから、徐々に「ワーグナー派」の友人達が離れていきました。さらに長年の良き理解者であったヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムや指揮者ヘルマン・レヴィ、またクララ・シューマン未亡人とも疎遠となります。こういう時はブラームスの常で、「去るものは追わず」…。しかし追い討ちをかけるように、大親友の画家フォイエルバッハや音楽学者ノッテボームも相次いで他界しました。50歳を過ぎたブラームスには妻も子もいません。これから、一人ぼっちで年老いていくのです。
 交響曲第4番は、その頃生まれました。全4楽章の基調となっているのは、内面に秘めた情熱と孤独感からくる哀愁。そして極めて堅実で新古典主義的な作曲手法。このブラームスの新作の噂が世間に伝わるや否や、「ワーグナー派」からは誹謗中傷やいやがらせが相次ぎ、知人からは、この論争下でのこの曲の発表を見合わせるよう忠告されたとも言われています。そこでブラームスは波風が立たないよう配慮し、敢えて初演は過去の交響曲を初演した名門ウィーン・フィルではなく、ハンス・フォン・ビューローゆかりのマイニンゲン宮廷管弦楽団に委ねます。また同様の理由により、この曲は誰にも献呈されていません。
 

第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ

 序奏も無く、いきなりヴァイオリンにて第1主題が提示されます(初演後ブラームス自身が4小節間の序奏を書き加えましたが、すぐ抹消しています)。意図してオーケストラ全体を強烈に鳴らすとかソロを際立たせるということは一切無く、あたかもピアノの連弾を聴いているような、普遍的で優しい響きがします。木管楽器とホルンにより鋭いリズムで切り込む第2主題とが折り重なり、発展していきます。
 

第2楽章 アンダンテ・モデラート

 この楽章は通常の音階(ド-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-シ-ド)ではなくフリギア調(ミ-ファ-ソ-ラ-シ-ド-レ-ミ)で書かれています。フリギア調は、まだ和音を作ることを知らなかった中世の時代の教会旋法です。ホルンと木管楽器の掛け合いに始まり、クラリネットが哀愁を帯びた第1主題をじっくりと歌い上げます。旋律は、一瞬三連符を伴う鋭角的なリズムに何度か中断されますが、dolce(柔らかく)と記された第2主題がチェロに現れると、元の曲想が戻ってきます。この主題は、後半では標記がespressivo(表情豊か)に変わり、弦楽器奏者全員で熱く奏でられるのです。
 

第3楽章 アレグロ・ジョコーソ

 通常の交響曲では3拍子のスケルツォに該当する楽章ですが、ここは通例に反して2拍子です。ハ長調という素直な調性もあり、哀愁漂う他の楽章と比べて唯一明るい響きを持ち、楽器編成も、コントラファゴットとトライアングルが加わって色彩感を増します。とはいえ爽やかさとか乗りの良さとかいうものとは程遠く、どこか無骨さの後ろに不器用なユーモアを秘めた、ブラームスの人となりが見え隠れしています。
 後半のクライマックスの総奏部分では、よく注意して聞くと実は第4楽章の冒頭のテーマをそっくりそのまま先取りしており、次に続くフィナーレへ違和感なく流れるように配慮されています。
 

第4楽章 アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート

 パッサカリア(シャコンヌ)と呼ばれる、一定の低音の旋律が繰り返され、その上に30回以上の変奏が織り成される、典型的なバロック音楽の形式による変奏曲です。この終曲もまさに、バッハのカンタータ150番「主よわれ汝にのぞむ」の旋律から着想したと言われています。
 トロンボーンを加えた管楽器全員による冒頭8小節間のコラールがそのまま弦楽器のピチカートに受け継がれ(ここで既に「第1変奏」)、その後低弦の旋律となり、目まぐるしく繰り広げられる変奏につながります。フルートの長いソロ(第12変奏)やトロンボーンのコラール(第14変奏)・管楽器のコラール(第15変奏)を経て、冒頭のテーマに一瞬回帰します(第16変奏)。だんだんとテンポが上がってコーダ(第31変奏という見解もあります)で激しく高潮し、ホ短調の熱い和音で終止します。


 この曲が完成した直後、当時のブラームス宅の近所で火事があり、部屋に煙が立ち込めてきました。彼はバケツを持って飛び出し、近所の人と一緒に消火活動に加わりました。隣人たちが皆言いました。
 「ブラームスさん、原稿!」
 「今のうちに取りに戻った方がいいよ!」
しかし彼は「いや、私はいいから」と頑として聞かず、黙々とバケツを運び続けました。せっかく書き上げたばかりの交響曲のことは諦め、とにかく隣人を助けることに専念したのです。
 幸い交響曲第4番の草稿は助かりました。見かねた隣人のひとりが決死の覚悟で炎の中に飛び込み、間一髪のところで運び出したのです。こうして事無きを得たこの曲はその年の10月に作曲者自身の指揮によりマイニンゲンで初演され、前述の指揮者ビューローはもちろん、若き日のリヒャルト・シュトラウスなどからも絶賛されます。そして1887年、ブラームスが64歳の生涯を閉じると、彼の故郷ハンブルクの市民は一斉に半旗を掲げ、弔意を表しました。
 友人達を失ってなお、これだけ理解者に恵まれているブラームス。「堅実」はいいとして、決して「孤独」ではなかったのですね。
 
 
 

(2001.6.3)


もとい