バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116
B.Bartok::Concerto for Orchestra Sz.116
大先輩リストに続くハンガリーを代表する作曲家であり、生涯を通してとことん祖国を愛し続けたベラ・バルトーク(ハンガリー語表記では「バルトーク・ベラ」、1881〜1945)。ハンガリー民族音楽の第一人者として、コダーイとともにハンガリー各地を回って地域に口伝いで伝わる民謡を録音・採譜し、研究を進めた功績が高く評価されるとともに、作曲家としても民族音楽と現代音楽との融合を試みつつ、「超民族主義」とも言うべき哀愁を帯びつつも力強い作風を確立し、国内での地位も揺るぎないものとなっていました。
そんな中で、ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争。第1次世界大戦で敗戦国となり国土を失い、領土回復を目指してナチスドイツ軍に加勢し、首都ブダペストはソヴィエト連邦軍に占領される等、ハンガリーの国内は混乱を極めていました。傍若無人に祖国を踏み荒らすソヴィエトも許せないし、さりとてユダヤ民族を排除し力づくで勢力を拡大するナチスドイツも許せない。落ち着いて作曲や研究に没頭できる環境を求めていたバルトークは熟考の末1940年に亡命を決意し、家族を連れてアメリカへ発ちます。
しかしバルトークのアメリカにおける生活は、お世辞にも順調とは言えませんでした。かつてドヴォルジャークもヨーロッパからアメリカへ渡りましたが、もともと好条件のヘッドハンティングを受けて渡米したドヴォルジャークと違い、バルトークは自身の頑なな性格ゆえに、時間を束縛するだけの音楽大学の仕事は受ける気になれず、加えて自作の演奏会も開いても、アメリカの聴衆にはなかなか受け入れてもらえませんでした。ハンガリー時代とは打って変わってのどん底生活へ追い打ちをかけるように、バルトークは白血病の診断を受け、入院を余儀なくされます。作曲や研究に没頭するはずが、体力の衰えに加えて精神面まで滅入ってしまい、もはや創作どころではない状態でした。 こんなバルトークの窮状を見かねた同郷の友人たちの働きかけで、当時色々な作曲家へ新作を委嘱していたボストン交響楽団の音楽監督セルゲイ・クーセヴィツキーが、ニューヨーク郊外への転地療養を決めたバルト−クの病床を訪ねました。
「バルトーク先生、ボストン交響楽団のために新作をお願いできませんか」
「いや、とんでもない。この体調では、曲を完成できる自信がないのだ」
「大丈夫です。どんなに時間がかかってもかまいません」
「いや・・・でも」
「いいから、いいから。お願いしますよ」
クーセヴィツキーはこう言って、謝礼の半額にあたる小切手を無理やり置いていきました。
曲が完成できる自信のなかったバルトークも、久しぶりの新作の仕事が嬉しくなかったわけがありません。療養先には五線紙が持ち込まれ、今まで温めていた様々なアイディアも盛り込み、実質2ヶ月足らずで完成したのがこの『管弦楽のための協奏曲』なのです。
『管弦楽のための協奏曲』は協奏曲と銘打っていますが、ピアノやヴァイオリンといった特定のソリスト(独奏者)は存在しません。しかしながら、バルトーク自身も初演時のプログラムにて述べている通り、オーケストラの中の様々な楽器が時にソリスティックに浮かび上がり、時に室内楽曲のような絶妙なアンサンブルを醸しだし、時に一体となって力強く鳴り響く等、色々な表情を見せます。つまりバロック時代の「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」の発展型、言うなればJ.S.バッハの『ブランデンブルク協奏曲』の20世紀版なのです。なお初演時は第5楽章のコーダ(終結部)は唐突な下降音型で終わる短いものでしたが、現在では出版時にバルトーク自身が書き足した、更なるクライマックスを作り華やかに終わる「別バージョン」を採用する演奏が多く、本日も通例に倣い後者による演奏となります。
第1楽章 序奏
弦楽器群のハンガリー民謡風の旋律に始まる、冷たく物哀しげな導入部では、最初の独奏楽器としてフルートが登場します。徐々に加速し、やはり東欧系の民謡に由来する半音混じりの音階で構成された情熱的な第1主題へ突入し、トロンボーンの短いブリッジを経て、オーボエやクラリネットによる切々と訴えるような第2主題が続きます。展開部では第1主題を中心に発展し、先ほどのトロンボーンの主題は存在感を増し、金管楽器全員による力強いフーガの主題となります。再現部では各主題が順不同で登場し、最後は展開部で登場した金管楽器のフーガ主題で決然と終わります。
第2楽章 対の遊び
終始ワイヤーを外した小太鼓のリズムに乗って、様々な楽器の二重奏が繰り広げられます。最初はファゴット、続いてオーボエ、クラリネット、フルート、弱音器を付けたトランペット。そしてトランペットは弱音器を外し、金管楽器群による静かなコラール。冒頭の主題が回帰したところは登場する順番こそ同じですがファゴットは三重奏、オーボエはクラリネットを伴う四重奏、クラリネットの裏にはフルートとファゴット、フルートの裏にはオーボエ・クラリネット・ファゴットが隠れ、トランペットにはクラリネットやオーボエが重なる等、他の楽器群との絶妙なアンサンブルが展開します。
第3楽章 エレジー
マーラーの交響曲第7番にも共通したノクターン(夜想曲)風の緩徐楽章です。ティンパニを伴う低弦楽器で静かに重々しく開始され、フルートとクラリネットのミステリアスな分散和音を伴い、オーボエとピッコロの悲痛な旋律が聞こえてきます。途中ヴィオラに出てくるハンガリー民謡風の物悲しい旋律は、実はどこからの引用でもなく、ハンガリー民族音楽を知り尽くしたバルトークならではのオリジナルの旋律です。コーダでは木管楽器の和音が徐々に積み重なり、浄化されながらピッコロへ受け継がれ、静寂の中で孤独に終わります。
第4楽章 中断された間奏曲
短い序奏に続き、木管楽器の物憂げな主旋律、弦楽器によるクールな副旋律が交互に演奏されながら進行しますが、途中で全く関係のないエピソードにより「中断」されます。たまたまつけていたラジオから流れてきたショスタコーヴィチの『レニングラード』(交響曲第7番)が耳について離れなくなり、トロンボーンのブーイングや木管楽器群の嘲笑まで加えて、徹底的に茶化して挿入したのです。よりによって祖国を侵略したソヴィエトを肯定した曲だったからでしょうか(本当はそういう曲ではないのですが…)。なお、後にショスタコーヴィチは1962年に交響曲第13番『バビ・ヤール』にてバルトークの作品をパロディとして引用し、当事者不在で誰も傷つくことのない、ささやかな「反撃」を試みています。
第5楽章 終曲
バルトーク自身による解説では、この楽章は「生への肯定」がデーマであると説明しています。ホルンの合図で、急速な無窮動風の細かい旋律が徐々に弦楽器全体に波及し、やがてオーケストラ全体が爆発し、バグパイプや鐘の音の模倣が響く中、ハンガリーの民衆の賑やかなお祭り騒ぎが展開します(こちらもハンガリー民謡の直接の引用ではない、オリジナルの動機です)。途中何度か音量を落とし混沌としますが、民衆の底力ですぐに生気を取り戻します。最後は怒涛のクライマックスの頂点で金管楽器が決然としたコラールを奏し、力強く締めくくられます。
初演は1944年12月に作曲者立会いの下、クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団にて行われ、大成功を収めました。そして翌1945年9月26日、バルトークはこう言い残してこの世を去りました。
「例え祖国でも、ナチスや共産主義が支配する土地には埋葬しないでくれ…」
そしてその時は遺言どおりニューヨークの墓地に埋葬されましたのですが、後に同じくハンガリー出身の指揮者ゲオルグ・ショルティの計らいにより1988年に改葬され、現在はバルトーク自身が最も望んでいた、平和の訪れた祖国の土地に眠っています。
(2014.6.29)