ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱付」

L.V.Beethoven:Symphony No.9 in d-minor Op.125"Choral" 



 「ベートーヴェンの一生は、嵐の一日に似ている…」これは、ベートーヴェンをこよなく敬愛した作家、ロマン・ロランの言葉です。実際ベートーヴェンには一生涯、これでもかと言わんばかりの苦難が数多く立ちふさがり、そしてそれらに耐え抜いて大成した、いわばクラシック音楽界の「おしん」(?)とも言うべき苦渋を味わってきた人なのです。
 ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年12月16日にドイツのボンで生まれ、宮廷のテノール歌手である父ヨハンからヴァイオリンやピアノの英才教育を受けました。しかし父ヨハンの胸中には息子をモーツァルトよろしく天才少年に仕立て上げて一儲けしてやろう、という良からぬ魂胆があり、実際は英才教育とは名ばかりの手荒な教え方であったとのことです。しかし音楽が大好きだった少年ルードヴィヒはめきめき上達し、8歳でリサイタルを、10歳で最初の作品を発表しています(8歳との記録もありますが、これは父ヨハンが息子を天才少年に見せるために「さば」を読んだ結果です)。そしてその才能が認められ、宮廷のオルガニストや歌劇場のチェンバロ奏者として着実にキャリアを積みます。
 そしてルードヴィヒ16歳の時。彼はウィーンを訪れ、モーツァルトのレッスンを受けるチャンスに恵まれて喜び勇んだ矢先、母親の訃報に接します。さらに、うだつが上がらず毎日飲んだくれた挙げ句に「自宅待機」状態となって収入が激減した父ヨハンに代わって、2人いる弟の面倒を見ながら苦学することを強いられてしまいました。
 やがて彼はハイドンに認められて単身ウィーンへ留学し、本格的な勉強が始まりますが、間もなく父ヨハンも死去します。ボンは時のフランス軍に占領されたため宮廷からの送金も途絶え、ウィーンへ呼び寄せた弟たちを自力で養うことになります。そういった中で、彼の実力はは着実に作曲家及びピアニストとして、貴族からも一般大衆からも支持されるに至り、彼の人生やいよいよ順風満帆かに思われました。
 しかし、ここで彼の最大の苦難が訪れます。28歳の時から患っていた中耳炎が悪化し始め、殆ど耳が聞こえなくなってしまったのです。音楽家として、これはあまりにも辛い出来事でした。絶望の淵に追い詰められたベートーヴェンは悩み、ついに自殺を決意します。そして、2人の弟へ宛てた手紙をしたためました(有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」です)。

 私は、君たちに別れを告げる。ある程度は治るものと信じていたのだが、もはやその希望も失った…木の葉が落ちてしぼむように…

 しかし、ふと彼は気がつきました。確かに耳は聞こえなくなったけど、彼の心の中では依然としてこんこんと音楽が沸き続け、鳴り響いていたのです。そう、自分には聞こえなくても、自分の音楽を楽譜にし、人に聞かせることはできるはずなのです。ベートーヴェンは自殺を思いとどまり、このどん底から這い上がりました。以後彼がこれをバネにして、誰も書けなかった独創的で感動的な作品をたくさん残し、後世の作曲家に多大なる影響を与えた…なんてことは、もはや言うまでもありませんよね。

 さて、そんなベートーヴェンの創作活動の頂点にある最高傑作と言えば、やはりこの「交響曲第9番」です。この曲が完成した1824年当時のベートーヴェンはもはや全く耳が聞こえなくなり、さらに眼病や肺炎や胃腸障害といった病気がが彼の体を蝕み始め、さらには経済的にも決して楽な状態ではありませんでした。しかしそういう窮状の中でもなお彼は、彼が若い頃から興味を持っていたシラーの喜びと平和と人類愛を歌った「歓喜に寄す」という詩に興味を持ち、敢えて喜びをテーマとした交響曲を作曲したのです。初演は1824年5月7日にウィーンにてミヒャエル・ウムラウフの指揮で行われました。

第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・ウン・ポコ・マエストーソ(過度にならず快速に、少し威厳を持って)

 冒頭、ホルンと弦楽器で静かに出てくるとA(ラ)とE(ミ)の音。長調とも短調ともつかない、空虚な響きです。それがオーケストラ全体に波及し、シンプルで強烈な第1主題が奏されます。情熱によって強固な意志を貫くこと、言ってしまえば「押しの一手」で喜びが得られるのか?という問いかけです。

第2楽章 スケルツォ:モルト・ヴィヴァーチェ〜プレスト(非常に活き活きと〜急速に)

 従来、交響曲の第2楽章はゆっくりした曲なのですが、ベートーヴェンは敢えて本来第3楽章にあるべきスケルツォ(舞曲)を先に配置し、第1楽章で確立された張り詰めた雰囲気に「駄目押し」をかけます。オクターブに調律されたティンパニを先頭に、オーケストラのあちこちから聞こえてくる躍動的な主題。中間部は長調に転じ、木管楽器とホルンを中心とした、明るく自由奔放な流れがいつまでも続きます。ここでは、いわば現実離れした自由奔放な行動や幻想を、果たして喜びというのか?という疑問を投げかけています(忘年会や社員旅行などで酔っ払って大騒ぎするのと似てますかね?)。

第3楽章 アダージョ・モルト・エ・カンタービレ(とてもゆっくり、歌うように)

 冒頭のクラリネットとファゴットのアンサンブル、そしてそれに続く弦楽器の物静かな旋律。そしてその旋律に少しずつ彩りが加わりながら変奏されていきます。ベートーヴェンの作品中最も美しく、かつ痛いほど感動的なアダージョで、まるで男女が楽園で愛し合い、一緒に蝶でも追いかけているような、のんびりとした平和な楽章です。その途中、2度にわたり「本当にそれでいいの?」という警告のラッパが響き、一瞬我に帰りますが、結局また元通りののんびりに戻ってしまいます。

第4楽章 フィナーレ:プレスト〜アレグロ・アッサイ(急速に〜とても快速に)

 この楽章が、それまでの楽章で提示された質問に対する解答と言えましょう。管楽器の総奏と低弦楽器との間で交わされる激しいやりとり。そして第1楽章、第2楽章、第3楽章の主題が次々と奏され、ことごとく否定されます。
 「意志を強固に貫くこと?」「違う」「熱狂して自由奔放になること?」「いやいや」「楽園でのんびり愛し合うこと?でしょ?」「うーん、違うんだな」…じゃあ、喜びって何?
 ここで登場するのが、有名なあの旋律。「うん、それだそれだ」それまで否定し続けたチェロとコントラバスが自らその旋律を歌い始め、少しづつ回りの同意を得て、やがてオーケストラの結論として、総奏にてこの旋律が神々しく歌い上げられます。でも、まだ今一つしっくりこないようです。 ついに、ここでバリトン歌手が立ち上がります。
「おお友よ、このような音ではない!もっと心地よく、もっと喜びに満ちた歌を歌おうじゃないか!」
これはシラーの詩ではなく、ベートーヴェン自身による、いわば本音です。そしてこの言葉に続き、苦難を超えた喜びと平和と人類愛を高らかに歌い上げた「歓喜に寄す」という詩が何度も変奏されながら歌われ、大団円となります。
 さて、もうおわかりですよね。この交響曲のテーマは単なる喜びではなく、「いくつもの苦難に打ち勝って得た」喜びなのです。

 初演時、ベートーヴェンは指揮こそしなかったものの、上演における総監督としてステージの上に居ました。そして最後の音が鳴り終わり、静寂の中、彼は万感の思いでオーケストラや合唱団を見つめ、佇んでいました。気がついたアルト独唱のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取り、客席の方を示しました。
 万雷の拍手!ブラボーの嵐!
  静寂なんてとんでもない。初演は大成功でした。ベートーヴェンの脳裏に、幼い頃から今までの色々な辛い出来事や苦難の思い出が頭を過ぎり、そして、熱狂している聴衆へ向かって静かに頭を下げました。   

(1999.7.31)
  


もとい