ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調Op.67「運命」

L.v.Beethoven:Symphony No.5 in c-minor Op.67


 あまりにも有名な『運命』。この標題こそ日本以外ではあまりポピュラーではありませんが、あの「運命が扉を叩く」第1楽章冒頭のテーマは、音楽ファンならずとも世界中誰でもご存知でしょう。そしてこの曲がきっかけでクラシック音楽の虜となった人も多いはずです。本日ここにいらしている皆様も、幼少のころや学生時代、FMラジオや音楽の授業などでこの曲に接し、その衝撃や感動が忘れられず、夢中になってレコードを探した経験はありませんか?(ちなみにレトロな話ですが、当時『運命』のレコードを買い求めると、B面はなぜか決まって『未完成』でした)
 
ベートーヴェンが『運命』の作曲に着手したのは、交響曲第3番『英雄』が完成した直後の1804年。30代の、まさに最も創作意欲が旺盛だった時期の作品です。とはいえ、その情熱が少なからず恋愛に傾いていた時期もあったようで、とある伯爵未亡人に「熱」を上げていたことにより『運命』の筆がまったく進まなくなったこともありました。第3番『英雄』の直後に作曲したにも関わらず、比較的規模の小さい交響曲第4番が先に完成し、『運命』が第5番となったのはそのためです。
 そして幸か不幸か?この恋愛は成就せず、創作意欲は再び内面的で情熱を秘めた方向に向かいます。そして1808年、ベートーヴェン初の短調による、それも単なる悲しみというよりも苦悩といった重い言葉がより当てはまるような交響曲がようやく完成しました。
 この曲は、それまでの交響曲にはない斬新なアイディアをふんだんに採り入れています。例えば、すべての楽章において序奏なしで、単刀直入にテーマが提示されること。3楽章と4楽章の間は長大なブリッジにより切れ目なく続けて演奏されること。楽器編成では、音量を増強するためにピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンといった楽器が交響曲としては初めて使用されたこと。そして最大の特徴は、全曲を通して同じリズムが強烈に鳴り続け、全体の統一が図られていること(のちのベルリオーズ「幻想交響曲」やワーグナーの楽劇などの先駆けとなっています)。初演は1808年12月にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて行われました。交響曲第5番・同6番『田園』・『合唱幻想曲』(のちの交響曲第9番に向けた合唱と管弦楽との「コラボレーション実験」とでも言えましょうか)他という長大なプログラムで、耳の不自由なベートーヴェンが指揮を務めた演奏はお世辞にも名演ではなかったものの、その時客席に居た誰もが彼の作品の斬新さとその演奏効果に瞠目したと言われています。

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ

 冒頭いきなり叩きつけられるように登場するハ短調の第1主題、「運命のテーマ」。一見弦楽器のみで演奏しているようですが、実は当時まだ珍しかったクラリネットを重ねることで、斬新な音色作りを試みています。ホルンの導入に続き弦楽器に現れる変ホ長調の第2主題は、流れるように進行しつつも、伴奏として先ほどのリズムが鳴り続けています。展開部を経て主部の再現となりますが、冒頭をそのまま再現するのではなく、「運命のテーマ」オーケストラ全員により演奏させたり、オーボエの短いカデンツァを挿入したりと、色々な変化が加わっています。その後も一切テンポを緩めることなく、「運命のテーマ」の執拗な繰り返しにより、全502小節、気を抜く隙など一切ない、緊張感漲る楽章を結びます。

第2楽章 アンダンテ・コン・モート

 前楽章の緊迫感から一転、エアポケットに入ったような、ほっと癒される楽章です。
弦楽器による息の長い第1主題は、変イ長調というやや現実離れした調を用い、さらにヴァイオリンを使わず比較的音の低いヴィオラとチェロを使用することで、落ち着いた響きを醸し出しています。この主題を木管楽器群のコラールが受けますが、実はこのコラールの主旋律の裏に、あの「運命のテーマ」が隠されています。続いてクラリネットとファゴットが奏する平和な第2主題がやがてトランペットのファンファーレに発展します(緩除楽章に突如トランペットが強烈に鳴る、という手法はその後同じベートーヴェンの第9交響曲にも例がありますが、いわば夢の中でふと現実に立ち返る瞬間です)。この2つの主題を中心とし、時として暗雲が立ち込めながらも変奏が繰り広げられていきます。

第3楽章 スケルツォ(アレグロ)

 冒頭、チェロとコントラバスによるハ短調のミステリアスな主題に導かれ、あの「運命のテーマ」がホルンのffにて提示されます。冒頭のテーマが再度出てきたときには、気づかないうちに1音低い変ロ短調に転調し、また気づかないうちに元の調に戻すという、聴衆の耳を欺く「ベートーヴェン・マジック」が仕組まれています。トリオ(中間部)は長調に転じ、弦楽器を中心とした躍動的なフーガが展開します(なお今回はマエストロの解釈により、このトリオが終わってチェロとコントラバスの主題が再現する直前の236小節で冒頭に戻り(ダ・カーポ)、もう一度演奏します)。そして三たび同じ主題が、今度はチェロのピツィカートとファゴットによりたどたどしく現れ、やがて途切れがちになり寂しく終わると、終楽章に向けての静かで長大な導入部につながります。

第4楽章 フィナーレ(アレグロ)

 前の楽章から切れ目なしに、先ほどの導入部で溜めたエネルギーが、この楽章の冒頭で一気に爆発します。ここより、今まで沈黙していたピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンがオーケストラに加わり、音量とともに華やかさ、力強さが一気に増します。一瞬第3楽章の主題が回帰しますが、最後は迫力に押し切られるように息をもつかせぬ勢いで突き進み、コーダ(終結部)では「運命のテーマ」はついに影を潜め、そして今までの苦悩を全て断ち切るように何度も念押ししつつ、オーケストラ全員の最強奏で終わります。

 ベートーヴェンがこの曲で訴えかけている、自らの意思に関係なく降りかかってくる運命、苦悩、やがて見えてくる一筋の光明、そしてその到達点にある歓喜。この交響曲が作曲・初演された19世紀初頭のヨーロッパは、いみじくも神聖ローマ帝国の崩壊、ナポレオンのウィーン進出と重なっており、まさに世の中は混乱の極みでした。そしてこの交響曲第5番は、そんな激動の時代の渦中にいる人々への、いわばエールであったのかも知れませんね。


(2005.6.25)


もとい